「ザ・ノンフィクション」を見て制作者と語る
〜フジテレビで番組制作者と語り、TV番組を考える〜
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<ご報告>
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こちらに3週連続企画の実施報告がございます。
http://www.gillie.co.jp/g_club/seminar2010/0816.shtml
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<ご案内>
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ギリークラブのテレビ番組制作者シリーズです。フジテレビの情報番組「ザ・ノンフィクション」のCP味谷氏と相談して、太平洋戦争テーマの3本を3週連続で観て、制作者と語る会です。
日曜午後の「ザ・ノンフィクション」は良質なドキュメンタリーとして、普段テレビを見ない人も注目している番組です。
5月27日に実施したFNSドキュメンタリー大賞の会でも、グランプリ受賞作品制作者である東海テレビの阿武野氏が、「ザ・ノンフィクション」を作らせて!と言ってたのがとても印象的で、凄い枠なんだと再認識しました。
味谷さんと「ザ・ノンフィクション」テーマの会を設定、番組を見た直後に制作者の狙いや思いを聞き、質問、感想、意見交換、、、その後本音で語り合う場を一緒しようと盛り上がりました。
各回の番組には考えさせられる内容が沢山あるはずです。第一週は「康子のバラ」、第二週は「黒島を忘れない」共に過去放送した作品ですが、第三週はこの8月15日放送する作品、まだ仮題ですが、「台湾を救った日本人」です。
フジテレビの試写室で番組を見て制作者と語る三週間、いろんなジャンルの内容を観たいのですが、15日(終戦記念日)放送作品はかなり気合いが入っているそうです。
ならば、放送日に皆でオンエアを見ようとまで計画したのですが、さすがに休みの日、お盆にお台場というのはしんどくて・・・翌日16日に開催という事に相成りました。
3週間続けて、「ザ・ノンフィクション」の味谷さんはじめ、各番組の制作者の方と語りませんか?テレビ番組、特にドキュメンタリーの使命、役割、影響力など、皆で考えたい題材をテーマにじっくり語り合いたいと思います。
番組制作者はどんな狙いで制作しているのか。
取材最中にどんな事態が起きたか。
想定外で認識が改まったことはなかったか。
被取材者はどんな人で、どのように対応してくれたか。
周囲の関係者はどのような反応であったか。
放送後の反響
・視聴者
・関係者
・自己分析
・今後どのような番組を作りたいか
・どんな素材で、何を主張したいか
などをざっくばらんにお聞き出来る場にしたいと思います。
制作者の方に比べて、我々視聴者は感想を言う場が無く、いきおい終わったら「あ、そうか」で次の事をしがちですが、制作者の狙いや内容を深堀りする為に、しっかり受け止める場にしましょう。
テレビは影響力が大きなメディアです。その為にも番組制作者の方と語るチャンスがあればと、ギリークラブがそんな場を提供したいと思います。
奮ってのご参加お待ちしています。
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<参考サイト>
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●ザ・ノンフィクション
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/thenonfx/index.html
●フジテレビ トップ
http://wwwz.fujitv.co.jp/
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<参考>
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<参考1:「康子のバラ 〜19歳、戦渦の日記〜」>
太平洋戦争の下、19歳という短い生涯を閉じた少女が残したもの。それは、日記に綴られた友への思いと家族への愛情、そして未来への希望‥
終戦から64年、一人の若き女性の祈りは海を越え台湾の地で受け継がれていた。
粟屋康子(あわや・やすこ)、享年19。
昭和20年8月6日、原爆によって死亡した粟屋仙吉、広島市長の次女である。
東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)附属専攻科の学生だった康子の日記。そこには、彼女の「青春」の日々と想いが、清新な筆致で綴られていた。
「いつの時代も若い人は美しいに違いない。
しかし、今の私達ほど美しくはなかった。私は、こう断言して憚らぬ。」
学徒動員により、東京・十条の陸軍工場で高射砲の弾丸造りに勤しんでいた康子は、共に働く中央大学予科の男子学生たちの憧れの対象だった。
その中に、台湾の国籍を持つ一人の青年がいた。日本の配下にあった台湾で生まれた梁敬宣は、留学生として中大予科に入学し、誰よりも“日本人”としての意識が強い熱血漢だった。恋愛が許されない戦時下、康子は、梁の想いを知り戸惑っていたが、日本人としての戦死を覚悟した梁から頼まれ、“髪の毛”を手渡した心境をこう書き綴っている。
「私のこれからの生活は、どうしてもい気分束縛されるにちがいない。私の髪の毛をもって征った人がある‥その人は今戦っている‥と思ふときに。
(中略)その人に対して恥じない生活であらねばならぬと鞭打つから‥。」
昭和20年8月6日に原爆で、尊敬する父、そして弟などの死を知らされた康子は、原爆を受けてなお生き残った母親の看病のために東京から焦土と化した広島に向かおうとする。この時、康子のために尽力したのが梁だった。戦後の混乱で、鉄道の切符は一般人の手には入りにくいものだったが、梁が“戦勝国”の国民として特別に切符を手に入れ康子に手渡したのだった。
この時、梁の思いは複雑だった。ついこの前まで、日本の勝利を信じて疑わなかった自分という存在は何なのか−
皮肉なことに、この広島行きの切符が康子の運命を変える。
死を目前にした母親を助けようと献身的な日々を送った康子は、やがてそのために二次被爆し、同年11月、短い生涯を閉じた。
現在、台湾で暮らしている梁は、裏庭に可憐に咲くバラの木を大切にしている。
梁は帰国して間もなく、戦時中に康子たち女高師専攻科からプレゼントされた思い出の“赤いバラ”を花壇に植える際、康子から手渡された髪の毛も一世に埋めたのだという。
終戦から64年、康子の短かった生涯を惜しむかのように、その赤いバラは台湾で今も可憐に咲き続けている。
番組では、粟屋康子の19年の生涯と彼女を取り巻く人々の戦渦の日常を、遺された日記と関係者の証言により、立体的に描き出している。
日本の未来への希望も綴られている日記からは、現代の日本人が忘れてしまった信念や誇りを発見できるに違いない。
毛利匡ディレクターのコメント
『粟屋康子さんの日記は鮮烈な青春の記録、そして祈りの物語です。
戦渦の中で、友を思い、家族を愛し、未来を信じて、懸命に生き抜こうとした一人の乙女がいた。その姿が64年の時間を超えて胸に迫ります。康子さんの祈りを少しでも伝えられたら、そう願ってやみません。』
放送日時:2009年8月2日(日)13時45分〜14時45分
フジテレビ(関東ローカル)にて放送
語りと朗読:宮崎あおい(女優)
チーフ・プロデューサー:味谷和哉(フジテレビ)
プロデューサー:森 憲一(フジテレビ)
清水哲也(ドキュメンタリージャパン)
演出:毛利 匡(ドキュメンタリージャパン)
監修:門田隆将(文藝春秋「康子19歳、戦渦の日記」著者)
<参考2:「終戦記念スペシャル 黒島を忘れない」>
放送 2004年8月15日(日)
太平洋戦争末期、鹿児島の沖合に浮かぶ黒島に不時着した特攻隊員たちと、島の人々との知られざる物語を描いた番組。
九州南部の基地を飛び立ち、沖縄の敵艦に体当たりを仕掛けた特攻作戦では、3000人の若い命が失われた。しかし、特攻機の中には機体不良のため、南下の途中で海に墜落し、失意のまま助けられた特攻隊員も少なくない。川崎市在住の元海軍特攻隊員、江名武彦氏もそのひとり。鹿児島の沖合に浮かぶ黒島上空でエンジンが故障し墜落した。黒島ではそのひと月前、荒磯に胴体着陸した陸軍特攻隊、柴田信也少尉が瀕死の全身火傷を負い、民家に伏せっていた。そしてさらに、同じ知覧基地から出撃した安部正也少尉も、黒島に不時着。安部少尉は、火傷に苦しむ柴田少尉に治療薬を届けるため、手漕ぎの小舟で本土に渡り、数日後に再び出撃。黒島の上空を旋回する特攻機から小包が投下された。柴田少尉は、小包に入っていた薬で一命をとりとめたが、安部少尉は沖縄に向かい帰らぬ人となった。
番組は、柴田氏とともに黒島で生き残った元海軍特攻隊員、江名武彦氏が、柴田氏の遺志を継いで、終戦後59年目の2004年5月、黒島に建立した観音像の慰霊祭を中心に取材をおこなった。(制作協力 スポニチクリエイツ)
<参考3:「なぜ、父は海を渡ったのか(仮)」>
なぜ、父は海を渡ったのか(仮)
〜根本博中将、恩義に生きる〜
放送予定:2010年8月15日(日)14:00〜14:55
制作:情報制作局情報制作センター
チーフ・プロデューサー:味谷和哉
プロデューサー・ディレクター:森 憲一
【企画意図】
その“日本人”は、今でも台湾の人々から「戦神」と呼ばれている。
根本博・陸軍中将。彼は戦後、台湾に極秘に渡航し、現在に至る台湾の分離確定に大きな役割を果たしたといわれる。昭和24年、根本中将は台湾国民党軍の参謀となり、中国共産党の人民解放軍を撃退したという事実が、近年、中国と台湾に残る資料などから明らかになった。当時の日本政府もこの情報を一部掴んでいたものの、今もって“秘密のベール”に包まれている。
なぜ、根本中将は敗戦後、武装が許されなかった状況下で危険を冒してまで、中国大陸から逃れてきた蒋介石を救ったのか−
根本中将は、蒋介石が敗戦時の日本軍捕虜に対して人道的に対応し、日本側に賠償金を要求しなかったことに恩義を感じていたといわれている。すべては大儀のために−。
番組では、歴史に埋もれた日本人を再び検証・ドキュメントすることで、忘れられようとしている「日本人の心」を描きたい。
【番組内容】
太平洋戦争の末期、当時、蒙古軍司令官だった根本博・陸軍中将は、終戦を迎えた後も武装解除命令にそむき攻めてくるソ連軍に対し、あらゆる手を尽くして戦う。その結果、内蒙古在住の日本人居留民4万人は、ほとんど無傷で日本に帰国することができた。また、根本中将は、戦後、北支那方面軍の司令官として、北京の在留邦人らを無事に帰国させた。このときに協力したのが蒋介石だったといわれている。昭和24年、恩義を感じ続けていた根本中将は、毛沢東の中共軍と戦い敗走を続ける蒋介石を助けるために、宮崎県から釣り人に変装して台湾に密航することになる。
根本中将は、台湾国民党軍の軍事顧問として台湾の金門島で3万人の人民解放軍を迎え撃つ作戦を立案し、1万の兵力で撃退する。
このとき、もしも中共軍が上陸して古寧頭村を占領した場合は村ごと焼き払ってしまおう、という国民党軍の作戦案に対し根本中将は「それでは民間人が犠牲になってしまう」と主張し、村の北側から沿岸に向かう一ヶ所を開け、そこに中共軍をおびき出して、海岸沿いまで移動させ、そこで、陸と海から挟み撃ちにするという作戦をたて、村人も救いながら中共軍を降伏させた。
現在も、金門島の古寧頭村では「あの日本人が我々を助けた」という話が伝説となっている。
その金門島では、10月25日、「古寧頭戦没60周年記念式典」が行われ、根本中将の渡台計画に関わった人物の家族も出席した。
父親が、戦後をどう生きたか−
なぜ、命を懸けてまで台湾での戦争に身を投じたのか−
番組は、ジャーナリストの門田隆将氏とともに、当時を知る軍関係者や村人を探し出し、証言をもとに根本中将の人物像に迫った。
また、当時、根本中将とともに戦った戦友たちが遺族に残した貴重な資料から、日本と台湾の封印された歴史をドキュメントとして解き明かす。
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<実施概要>
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●「ザ・ノンフィクション」を見て制作者と語る
〜フジテレビで番組制作者と語り、TV番組を考える〜
●開催日
(1)8月2日(月)観賞作品「康子のバラ 〜19歳、戦渦の日記〜」
(2)8月9日(月)〃「終戦記念スペシャル 黒島を忘れない」
(3)8月16日(月)〃「なぜ、父は海を渡ったのか(仮)」
時間帯は各日とも
18:00〜19:00観賞
19:00〜20:00制作者と語る会
20:00〜22:00交流飲み会(参加自由・別会費)
●会場 フジテレビ内試写室
港区台場2-4-8
ご参加の方に入館方法をご連絡します。
●ゲスト:
味谷和哉氏(フジテレビ/ザ・ノンフィクション チーフプロデューサー
●会費(各回):正会員:3,000円 ビジター:5,000円
(試写は無料、記録費、事務局運営費)
●募集人数:申込先着順 20名募集 (メンバー優先です)
●締切:7月26日(月)
(それ以前でも満員の際には締め切ることもあります。)
※満員の際、キャンセル待ちは可能です。
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